2008年10月09日

サイエンス・サイトーク/高野進氏「もっと速く走る 2008/2/24」

サイエンス・サイトーク/高野進氏(日本陸上競技連盟強化委員長、東海大学准教授、スポーツ心理学)「もっと速く走る 2008/2/24」

高野進氏、名前はよく知っていました。バルセロナの決勝もテレビで見ていました。短距離種目でオリンピックファイナルに残ったのは64年ぶりとのことで、当時テレビにかじりついて見ていました。私の中では「ただ足の速い人」(笑)。しかし、このトークを聞いて、私の認識は誤りだったことがわかりました。走ることは哲学です。走ることで頭は良くなると断言します。この回および次回は必聴です。

・私がオリンピックを意識したのは標準記録を突破したとき。それまではオリンピックを意識したことはなかった。オリンピックは特別な存在で誰もがそれを目標にできるわけではなかった。ただ、走ることへの思い入れは昔からあった。
・100m、200mと400mでは走る人にとってはずいぶんちがう。400mは酸素を極力取り込まないで走り続ける競技。酸素を取り込んで、グリコーゲンや脂肪を燃焼しながらという走りでは、あまり早い動きはできない。どうしても長距離的な動きになってしまう。ところが、あるレベル以上のスピードを出すと、酸素を取り込むことができなくなって、無酸素状態で動く。それは42〜3秒が限界。400mの世界記録が43秒(43秒18、マイケル・ジョンソン(米)、1999年)。限界まで動き続けるということで、日常の動きの中では持久的に駅まで10分走るとか、ダッシュで階段を駆け上がるということはあるだろうが、40秒間全力で走るというのはない。夜誰かに襲われて逃げるとか、生命の危険に瀕したときとかにしか発揮しないエネルギー系。
・200m走っていた高校生が、同じペースで400m走れば持たない。苦しみたくないので、できるだけ最後まで走りきりたいという気持ちで、私の場合は最初手抜き走法から入った。結果的には400mに転向したことが自分にとってはよかった。
・リレーは陸上競技の最後の花形。対抗戦(インターハイ、インターカレッジ)では4×400mリレーで勝つと、すべてで勝ったような気持ちになる。だから高校・大学の指導者はリレーを強化する。私もその強化する中で指名された。高校時代私は100m、200mをやっていて、当然400mチームも横目で見ていたけれども、練習を見ると、本当に気の毒なくらい苦しい練習をしている。ゴールした後に倒れ込んだり、もどしたり…… 「よくあんなことしているな」と横目で見ていたのが、2年生の時に「400mをやりなさい」と。「がーん」「ついに来たか」と。
・その前は棒高跳び。高校に入った当初は顧問の先生が「キミはちょっと短距離では通用しない」と言われた。幅跳びや三段跳びとかハイジャンプはもう今からやっても通用しないが、棒高跳びは選手層が薄く、専門的な種目なので、一生懸命やれば高校時代の良い思い出作りになると。それで棒高跳びをやったら結構おもしろくて。走る競技では、急に早くなったりとか、急に走りが良くなることはなく、徐々に早くなっていく。しかし技術系の種目はいきなりタイミングがあって、10cm、20cmバーを超えたとか、形になってあらわれるので、熱中しはじめた。この棒一本で「次は3m」、「次は3m50cm」と目標が毎日ある。人一倍練習するようになり、4mぐらいまで一気に行った。
・これはなかなか素質があるということで、張り切ってやったのだが、高いところを飛ぶには、棒の高いところを持つ必要がある。しかしリスクとしては、ポールが起きにくくなる。上を握れば戻ってくると。で、あるとき頂点近く、4m近くで戻ってきてしまって、後ろに行くとマットがない。4mから飛び降りるとボキッと膝がいって、棒高をやめた。痛かったし、恐いということもあって。
・400mに移ったことで、走るということに対し、小学校の運動会のようにがむしゃらに全力で走ると、それでは持たない。同時に、マラソン大会のようにペース配分で「吸って吐いて」では通用しない。だからある程度のスピードを維持しながらそこでリラクゼーションをしなければいけないという、「全力疾走なんだけど全力を出していない」という感覚が400mをやってわかった。
・ボールでたとえれば、ボールを転がすのが「歩く」。地面にどこかが接している。「走る」はボールを弾ませていく感覚。宙に浮いてくる。子どものころから成長期にかけては、ボールにたとえるとどんどん空気が入ってくる。弾む身体になってきて、走りたがる。だいたい女性あたりだともう中学ぐらいから自体重が重くなり、走ることに対して少しかったるいなと思いはじめる。はずまなきゃいけないんで。それが中高年になってくると完全に空気が抜けてくる。だから転がるのは簡単。いくら体重が重くても、弾まなくていいので。足を出したら次の足を出せばいいので。だからウォーキングはすごく楽。走るのは一大事。
・(高野氏の勧める)二軸走法では、腰はなるべくひねらない。われわれは外的なエネルギーをうまく使わないと早く走れない。内的なエネルギーというのは筋肉。外的なエネルギーの代表的なものは地上においては位置エネルギー。重力に対し、ある位置にあれば、落ちていくときにエネルギーを持つ。棒のように立ててあるものが倒れるのも位置エネルギー。それを利用するのが振り子。球が一番上にあるときには位置エネルギーが一番たまったいる状態。下がっていくときに、位置エネルギーを使っていく。
・もう一つは運動エネルギー。これは、動いている物体はエネルギーを持っているというもの。落ちていくときは運動エネルギーがだんだんたまっていく状態。加速がついて。位置エネルギーはだんだん減っていく。だから位置エネルギーと運動エネルギーは相互に与えあっている。だから振り子はずっと動いている。振り子が一番下に来たときには位置エネルギーはゼロ、しかし加速は一番つくから運動エネルギーはたまっていってまた位置エネルギーを作りはじめる。
・この振り子の理論を使って歩く。逆振り子で、メトロノームのように。これが1本、片足だと転んでしまう。ところが位置エネルギーを使って落ちていくときに反対足でつく。つまり逆振り子を二つ使う。二つの振り子を交互に振って歩いていくと、倒れ込み力を使ってうまく歩ける。竹馬がそう。
・そこでねじると、振り子がうまく働かなくなる。振り子は前後の運動で、そこで上で回転運動するとおかしくなる。
・飛脚とか、日本人は昔そういう走りをしていた(ナンバ走法)。日本人だから二軸走法なのではなく、世界中でそのような走りかたのほうがよいと思っている。私たちが高校の時ぐらいまでは、明治維新でずっと西洋の文化、スポーツ、科学を取り入れてきて、スポーツの中で走るということに関しては膝を高く上げ、腰を大きくひねって走るというのが教科書的とされてきた。ところがそういう情報が浸透して行くにつれて、日本人と世界との差がどんどん開いていった。情報が入る前のほうが、日本人は健闘していた。今から70年ぐらい前、独自のやりかたで。どんどん情報が入ってきて、日本中で西洋的なトレーニング方法とか技術論をとりいれて、それが隅々まで浸透しはじめたら、タイムが伸びなくなってきた。
・指導するにあたって、技術に関してはかなり細かく教える。基本に関しては。基本というのは私が考える動き作り。ドリルでいろいろと、膝をこの角度で上げてハードルを踏み越えるとか、その動きは、全力疾走のある感覚を切り取ってデフォルメしたイメージ。そこはある程度共通の感覚になりたいと。ところが、基本的なドリルをやった後で、自分で走らせてみると、今度は基本から自分の世界に取り込んで、基本を自分の形として表現していく。そこであまり細かいことは言わない。
・走るときはさまざまなものがかかわってバランスが取れている。その一つを変えると全部が狂ったりする。部分部分で切り取った動き作りの中で、脚の接地と腕の振りのタイミングをあわせるとよい踏み込みができるといったような技術的な話はそこでやって、走るときは自分でタイミングを探しなさいと。そこまでは教え切れない。
・リラクゼーションについて。運動学習の段階にはいくつかある。まず、まぐれでできた段階。それがある程度定着する段階では、まだ荒々しい技術で力みもある。次に高いレベルの動きがなんとかできる段階では、洗練された動きになってくる。そこは意識していて、まだ少し力が入りながらも、そういうふうにしている。それが定着してきて第4段階を過ぎ、自動化まで行くと、力みが抜けてくる。箸の持ちかたを外国人に教えると、すごく力が入っている。もう疲れるぐらい(笑)。箸で食べると手が疲れちゃって大変とか(笑)。日本人はぜんぜん疲れない。なにも考えていなくても、箸を置いておけば普通に箸を取って。ずっと持っていても苦しくない。外国人は手がつっちゃう。
・走りとか運動も同じように、最初覚えるまでは力んでしまうのだけど、一つは動きが自動化まで行くかどうか。そうするとリラクゼーションできるようになる。運動学習の最終目標は運動の自動化なのですけど、まちがえた形で自動化するとよくない。スキーでも我流で気持ちよさそうに滑ってはいるけどすごく格好悪い、でももう変えられないといったような(笑)。走りかたでもそういうかたがいっぱいいらっしゃって、子どものころからすごい個性的な走りかたで変えられない。
・次の段階で、天才スプリンター、天才アスリートというのは自動化したものを壊し、さらに高いレベルで作り直し、また自動化するということができる。そういう意味で「頭がいい」。それは観察力ではなく、脳の力。脳で運動プログラムを何回も壊して、作り直す。脳の中のプログラム、学習。なかなか物覚えが悪いかた、不器用なかた、コツがつかめないかたというのは、そういうプログラムがなかなか作れない。運動の単位として神経が筋肉の隅々に行っているが、指令がうまく出せないと。勉強の天才と同じように、運動にも同じことが言える。
・陸上には動きの良さと同時に排気量の大きさ、筋肉がエンジンなので、エンジンの大きさが影響してくる。どうしても筋肉のタイプが別れていて、速筋繊維と遅筋繊維、速筋は早く収縮する筋肉、遅筋は遅く収縮する筋肉だけれども、この割合はある程度先天的に決まっていると言われている。サラブレットからはサラブレットが生まれると。先天的な骨格や筋肉のタイプが優れている人で、なおかつ身体を操る神経系とか脳も非常に優れていて、なおかつ高いモチベーションがあってスケールの大きい人物が勝つのじゃないか(笑)。
・走るという単純な行為の中に、ある時すごく気持ちのいい瞬間がある。気持ちがいいというのは推進力を感じているときの、自分の今までにない感じ。それを、「もう一回あの感じで走ってみたい」と。練習中に1本やってみて、足の接地と腕振りと重心の移動がぴったり合って、そのときの感覚はたしかにすごく気持ちいい。自分の2本の足でこんな速度が出ているという。
・その感覚は、年齢的なものもあるけど、けっこう続くのではないか。私たちはこの走るという根本的な運動に対して、不思議な世界観を持っている。世界記録は9秒74でパウエルというジャマイカの選手が持っている(当時)けれども、彼がペットの犬を飼っていたら、たぶんペットに逃げられたら追いかけられない。犬のほうが早い。四本足の小動物にもかなわない、私たちは実は足が遅い生き物。だが、ただの動物以上に走ることに対してこだわり、探求心を持っている生き物でもある。なぜか50m9秒の人が8秒9になって喜ぶ。だからといって今の時代に何か得することがあるかといえばない。タイムが縮むことは生産性が高まるわけでもないし。しかし最近になってわかってきたのは、文明人には共通感覚がある。共通感覚を共有して、好奇心と感動を常に求めている。その中で「走る」というのは身体表現としてもっとも共通なものである。二本の足でヨチヨチ立った時代から、速く走ろうという好奇心に挑戦して速く走った人に対して「おお、すごいな」と思ったり思われたりする中で、自分たちの好奇心と感動をずっと開発してきたと思う。だから私は「走る」という行為は人類が一番最初に挑戦した身体表現、逃げるとか捕まえるとか生活の中の動作ではなく、所作、身のこなしだと思う。実は「身のこなし」は日本人が一番こだわりを持ってきた。機能的であり、美しく見せる。他人、第三者を意識する。自分が動いていることを他人に認めてもらう、意識してもらう、評価してもらう。なおかつ、すごく機能的、効果的、効率的である。日本人はこだわってきた。その中で走るというのは原点。
・100mのレースを見て、タイムは全部10秒台前半だとしても、8人の、一人ひとりの性格とか全部わかる。荒々しい性格とか、クールな性格とか、後半焦るタイプとか(笑)。どんなすました顔をしていても、ドンと全力で走るところを見ればその人の性格がわかる。
・コーチから見て、「今日なおすべきところ」「10年後に花開かせたい」ではちがうが、「毎日毎日が勝負」。「今日この瞬間に完成させよう」とは思わないが、「今日この瞬間をこういうふうにしてほしい」はある。それがもしかしたら10年後か5年後につながるかもしれないと思うけれども、機械じゃないので計画通りに人間は成長しない。意識はするが、その通りに作り上げようとは思わない。今大事なのはこれが大事、幼稚園児にウェートトレーニングはさせない(笑)。幼稚園児なら今こういうことを一生懸命やってほしいと。マスターズのかたならこういうところをこだわってやりましょうとか。

サイエンス・サイトーク/高野進氏「誰でも伸ばせる運動能力 2008/3/2」はこちら。

【サイエンス・サイトーク】
高野進「もっと速く走る」2008年2月24日放送
高野進「誰でも伸ばせる運動能力」2008年3月2日放送

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posted by zxcvaq at 07:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | サイエンス・サイトーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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