2008年08月26日

教育的効果

はてな匿名ダイアリ「もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに」について。
同感です。小学校ではもっとテクニックを教えてもいいのではないか。私、字も下手ですし、絵も上手に描けません。ですからもっと簡単に字や絵がうまくなれていたならば、ちがった人生が歩めていた可能性もあるでしょう(笑)。

 子どもが通う小学校の夏休みの宿題では、1年生から原稿用紙3枚の読書感想文が課せられます。ようやくひらがなを覚えた程度の子に、いきなり原稿用紙3枚…… いきおい、親が考えて子どもに写させることになってしまいがちです。だって不可能でしょ(笑)。わが家の場合は、斎藤孝著「原稿用紙10枚を書く力 (だいわ文庫)」がかなり参考になって、本を読んでおもしろかったところを3つ抜きだし、それについてどこがおもしろかったのか、自分ならどう行動するかと言ったことを書かせました。枚数にこだわらずに書かせても、だいたい規定の枚数には達します。下の子は妻が指導していましたが、上の子は今年はもう完全に独力で書けるようになりました。書けると自信につながりますから、こうしたテクニックはぜひ教えるべきだと思います。

 しかし一方で、小学校でテクニックを教えてくれなかったからこそ、あとで自分がいろいろ考える余地が出てくるのかなとも思います。これぞまさに「教育的効果」! 最初からテクニックを教わっていたら増田さんもこのようなエントリにはいたらなかったわけで、より深く考えることができたのはまさに授業(というか教師)が不完全だったからこそ、という側面はあるだろうと思います。

 個人的に思うのですが、教師が完全である必要はないと思います。「読点の打ちかたを聞いても教師は答えてくれなかった」というTBがありましたが、自分なりに考えたことはそのかたにプラスだったのではないでしょうか。同時に、教師が答えてくれなかった(答えられなかった)からこそ、人生の早いうちから教師はアテにならないことが認識でき、ひいては大人がアテにならないことがわかったのでは(笑)? その結果、そんな大人にはなりたくないと努力する人もいれば、その程度でいいのかと納得してしまう人も出てくる。世の人すべてが努力するのであればいいですけど、完全な人はいませんからね。美術や書道、音楽を楽しいと感じる機会を子どもたちから奪ってしまうのは大いなる損失かもしれませんが、1クラスに30人もいるような小学校ではしょうがない。大人になってからでも美術の楽しさに気づけば、それでいいのではないでしょうか? 全員が絵や書で食べていくわけではないのですし。算数や国語でも一緒です。計算ができなかった子も、漢字が書けなかった子も、大人になって社会に出ればそれなりに食べていっています。苦労したことがマイナスになっているとしても、マイナスも含めて、その人の糧になっていると思います。

 私は中学生のころ、一部の教師の頭の悪さに非常に憤っていたのですが(笑)、今思えば、私自身が非常に狭い世界でしか物事を見ていなかったと反省しています。「教師がバカである」ことを見抜いていた点では正しかったと思いますが、そこにも教育的効果があるとは考えていなかった。担任教師がダメダメで、担任の交替を要求する運動が起こったとか、私の子どもが通う小学校でもある(あった)ようですが、教師がバカでダメでアテにならないと思えば、それこそ実はチャンスなのかもしれません。もちろんセクハラとか犯罪は論外ですよ、念のため。

 世の中に意味のないものはない。どんなものも、その存在には意味がある。私はそう思っています。たぶんいくつになっても学ぶ機会はある。事故による死を痛ましいと思うのは、そうした機会が永遠に奪われてしまうから。いわんや人殺しにおいてをやです。

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posted by zxcvaq at 05:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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